大阪の追手門学院大学にオーストラリア研究所があることをつい最近知り、7月17日(土)、ここで開催されたシンポジウムに参加してきました。図書館には、オーストラリア大使館の収蔵図書が寄贈されています。
シンポジウム全体のテーマは『オーストラリアの映像メディアにみる多文化主義』です。
学長、オーストラリア大使館公使の挨拶のあと、まず、ゲイ・ホーキンスNSW大学教授からオーストラリアのテレビ局SBSのとりくみについての報告がありました。多民族社会であるオーストラリアは、各国から購入した番組をオリジナル言語のまま、字幕をつけて放映しています。それは移民たちに(元)母国語での番組を提供しつつ、同時にコスモポリンタンなオーストラリア社会をターゲットにして展開するためだということです。確かに異文化に触れる時、もともとの言語をその人の声で聞くことの方が自然なことであり、意味はわからなくてもそれなりに伝わってくるニュアンスのようなものは多いです。あえて吹き替えにしないことは、翻訳することで根本的に番組を変換させてしまうことを避けています。
講演の中で紹介された『アイアン・シェフ(料理の達人)』は、今も土曜日のゴールデンタイムに放映されていて、私もキャンベラ滞在中に何度か見ました。まず司会の鹿賀丈史はじめ出演者の若いことに驚きました。10年以上も前の番組ですから当然のことなのですが、オーストラリアでは再放送されるほどの人気だという証拠なのでしょう。
次に、もうひとりとても充実した講演をしてくださったのは、現在「オーストラリア映画におけるアジア人」をテーマに研究をされている、ラ・トローブ大学のフェリシティ・コリンズ先生。映画史のなかでみる「日本人」の描き方は、太平洋戦争映画では帝国主義的悪役(兵士)、現代社会では滑稽な観光客という姿に変遷していることを指摘されました。アジア人のなかで長い間最も象徴的にイメージ化されてきた「日本人」、それは見る側に「日本人はこうである」という暗黙の了解を得るルールが存在していて、つまり実像を見ようとしない「ステレオタイプ」を形成してきました。しかし、オーストラリア社会における「日本人」のイメージは、当然ながら変化してきています。それは戦争体験の記憶の風化と、日本の経済進出に由縁しているのでしょう。
それとは別に、流刑植民地、アボリジニへの差別と虐待、白豪主義といった暗い過去を克服しようとするオーストラリアの姿が、映画に反映されているのだという指摘は、納得できるとても興味深いものでした。さらに、イギリスから独立し、オーストラリアそのもののアイデンティティ形成を模索してきている社会背景もあるでしょう。
シンポジウムでは『ジャパニーズストーリー』(2003年)という映画について論議されました。日本人をステレオタイプに捉えているという内容が中心でしたが、第七芸術、つまりアートとしてこの映画をみるとき、イメージ、言葉、音楽が織りあわされ、多元的な意味や比喩が見えてきます。男性の目から見る時、女性の目から見る時、アジア人、あるいは白人、それぞれが持つ民族的背景や個人的な経験がそこに反映されてくるのです。作品を作る側の立場から言えば、アートは解釈を強要しない、それゆえいろんな見方ができる、許容範囲の広いものであるべきだと私は思っています。