カレドニアに来て一週間、地方都市ブーライユに撮影に行く途中、エマニュエル・カザレル館長とランチをとるためにチバウ文化センターに寄った。エマニュエルは2001年に大阪で知り合ってからの親しい友人で、ヌメアに来れば必ず会っている。とにかく彼との出会いがなければ、私は生涯ニューカレドニアに興味を持つことはなかったと言っても過言ではない。
この日はマリー=クロード・チバウ名誉館長が打ち合わせで彼のオフィスに来ていたので、3人でランチをとることになった。彼女は私のことを、2006年にチバウ文化センターで開催した展覧会の作者として知っている程度だ。
マリー=クロードは、チバウ文化センターの名前の由来となったジャン=マリ・チバウの未亡人で、現在はカナック文化局(財団)の理事長である。とても貫禄のある美しい女性だ。彼女の夫ジャン=マリは、10年にわたって続いた独立紛争における独立派Flnksのリーダーを努め、1988年にフランスとの間にようやく交わされたマティニヤン条約を締約した後、独立過激派に暗殺された。

センターのカフェテリアで、ニューカレドニアで著名なふたりのVIPに挟まれて、最初はどうなることかと少し緊張したが、話題は尽きず、とても楽しい時間を過ごすことができた。
最初の話題は、カレドニアでは今「国旗」について論争が続いていることについてだった。最近、島のあちこちの市役所のような公的機関にはフランス国旗とカナックの国旗が並んで掲げられている。私はそれをあたりまえのように見ていたが、保守派の人にとっては堪え難いことのようだ。血塗られた独立紛争の証であるあの旗、一部の独立過激派しか認めていない旗、それがカナック、いわばニューカレドニアを代表していいのか???ということらしい。そんなことを言われれば、フランスでも日本でも、それこそ国旗はもっと恐ろしい記憶を背負っていると私は想像してしまう。
次に、チバウ文化センターで開催中の「ミッションローブ」をテーマにした現代アートの展覧会の話になった。ミッションローブは今でこそ、カナック女性に欠かせないコスチュームとして見られているが、もともとはイギリスからやってきた宣教師が裸同然で暮らしていた女性達に、ヴィクトリア時代の服を簡略化させたものを着せたことに端を発する。言い換えれば「野蛮人に文明を!」という植民地主義を正当化するためのシンボルと言えるだろう。
そんなおり、友人の日系三世ルイーズがフランス人から来た友人と偶然カフェテリアに入ってきた。私は半年ぶりの再会が嬉しくて、すぐに席をたって彼女に挨拶をした。
食後のコーヒーを飲み終えた頃、記念写真を一緒にとらせてほしいとルイーズが我々3人のテーブルに来て言った時、私は急に思い出して、「彼女が有名なマショロ*が投票箱を叩きつぶす瞬間の写真を撮ったのですよ」と言った。その言葉にVIPふたりは驚きを隠せない様子で、「今や世界中に配信されている有名な写真に撮影者の名前が残っていないのはおかしい。そのことはきちんと記録に残すべきだ」と交互に言った。ルイーズは照れながら、撮影に至った経緯を説明していた。たしかにあの写真はピュアリッツァー賞に値するような報道写真である。日本人の歴史を追っていると、こんなふうにいつのまにかいろんな歴史をあわせて学んでいることが多いのだ。
皆でテラスに出て、レンゾ・ピアノ**の代表建築、チバウ文化センターのカーズを背景に、ルイーズがセルフタイマーをセットした。マショロの写真を思いながら、皆がキャノンのデジタル一眼レフの前に並んだ。エマニュエルが「日本語でフロマージュ!」つまり「チーズ!」と、私にしかわからない掛け声をかけ、みんなでにっこり撮影を終えた。A bientôt ! (またね)と皆にビズ(挨拶のキス)をして、私は次の待ち合わせ場所に向かった。

*独立派Flnksのメンバー。反独立派に有利な投票を拒否した。
**イタリアの著名建築家。関西空港も彼の設計。