まもなく大阪に向けて出発です。なにぶん出発は夜中の1時45分。待ち合いロビーのWifiでインターネットでもしていないと眠くて仕方ありません。
今朝のレ・ヌーヴェル紙には、ラ・フォアの元米軍飛行場跡に建設するはずだった博物館のプロジェクトが頓挫し、それがヌメア市に委ねられることになったと大きく紹介されていました。もともとニューカレドニア南部州がコレクターのポール・パチュレル氏から、彼のニューカレドニアに駐留した米軍に関するコレクション(たとえば戦車とか兵隊の制服や帽子、地図など)を購入したことが発端となって進められてきた企画ですが、予算のめどがたたなくなったというのが現状のようです。
実は私自身もこのラ・フォアの博物館に参加する予定でしたが、これでこの話はうやむやになりました。フランスからキュレーターを招いて企画案もできていただけに残念です。
それに変わってヌメア市のプランはかなり経費も少なく、米軍が残した簡易の建物ドゥミ・ルナ(半月の意味)を改造したもので、港の側に建設される予定です。こちらの企画の中心者も親しい友人なので、今後は見守っていきたいと思います。
1942年3月、米軍はニューカレドニアに上陸しました。それは日本人が島から敵性外国人として追放された1941年12月を機に、対日戦の拠点として米軍が駐留することになったからです。その後米兵の数は住民の10倍にまでのぼり、島全体が米軍基地に変わり「アメリカの空母」と呼ばれるようになります。その間のめざましい変化、たとえば米軍があっというまに道路を敷き、橋をつくり、病院を建てていったのを島民は驚きながらも好意的に記憶しています。そして日本に進駐軍がいた頃と同じく、米軍はコカコーラ、チューイングガム、チョコレートを配って子供達を喜ばせました。
ガダルカナルでの日米戦で死傷した米兵はニューカレドニアの病院に移送され、亡くなった兵士は現在の5km墓地に葬られました。墓地となった丘があっというまに白い十字架で埋まっていく様を島民は傍観し、それがいつのまにか米政府によって亡骸のすべてがアメリカ本国に持ち帰られたといいます。今ではその場所にモニュメントがあるだけです。
ガダルカナルの戦いで捕虜となった日本兵も負傷している場合は、まずニューカレドニアに送られました。回復するとアメリカ、オーストラリア、ニュージーランドいずれかの捕虜収容所に送られました。ニューカレドニアのパイタにあった捕虜収容所では、オーストラリアで起こったカウラ大脱走に比べれば小規模ですが、同じような日本兵の自決騒ぎがカウラより前におこっています。
あいかわらずニューカレドニアは「天国に近い島」と呼ばれているようですが、日本との複雑な関係こそ、私がこの島に魅かれ、何度も通う動機になっているのです。