ウチナーンチュ大会の期間中、記者たちの寝る間も惜しんだ取材ぶりには感心する。日本語のわからないカレドニアからの参加者の代わりに、そばにいる私たちに声がかかる。親族探しの記事はどんどん載せてくれるし、見つかればまた記事になる。すごいスピードで何が起こっているかが沖縄中に広まり、読んだ人は我がことのように一喜一憂している。でも、あくまでもそれは沖縄だけで、本土にはなにも伝わらない。だからこそこの時期は沖縄にいるべきなのだ。
今回、琉球新報の男性記者Iさんが、開会式で話をしたPさんの親族探しをとりあげたいと、通訳をしていたKさんに再三連絡をとってきた。Kさんが私に相談してきたので、Pさんは沖縄出身ではないし親族を探すには情報が足りなさすぎることを伝えた。その代わり、情報はあるけれど見つかっていない故宮城恒基さんのことを記事にしてほしいとお願いした。
取材を受けた翌日、記事が出るとすぐに友好協会に連絡があった。その日の11時にもう親族の女性が、故宮城恒基さんの孫エミリアンに滞在先のホテルまで会いにきてくださった。新報のまた別の女性記者Tさんが来ている。ゆったりとした沖縄ですごいスピードだ。しかもエミリアンの従姉妹にあたる女性は、とびきり素敵な方だった。
ここで宮城恒基さんのことを少し紹介したい。
1905年、沖縄に妻子を残してニューカレドニアに渡り、その後、島の北部に定住し、現地の女性との間に6人の子供をもうけた。しかし、1941年太平洋戦争が始まると、敵性外国人としてオーストラリアの強制収容所に送られ、そこから1946年に強制送還で沖縄に引き揚げた。
この宮城恒基さんの孫娘ロベルタ(エミリアンの姉)は、カレドニアでも私の最も親しい友人のひとりなので、以前からずっとその消息を探していた。屋良出身で、戦後その村は嘉手納飛行場となったため直接訪ねることもできない。沖縄市には戸籍も残っておらず、手がかりはなにも見つからなかった。
今回、I記者と相談し、初めて沖縄の前妻とその子供の名前を掲載してもらった。個人情報なのでずいぶん躊躇したし、最初の妻子の立場を考えれば、カレドニアの恒基さんの孫の存在はおもしろくないはずだ。ところが、名乗り出た方は、ずっと見つけたいと思っていた、と快活におっしゃった。言葉も通じない親族が突然現れても、彼らは両腕を広げて迎え入れる。沖縄の人の情け深いチムググル、またしても圧倒された。
翌日、別の従兄弟の方のトーカチのお祝いがあるということで、そこにエミリアンも招待されることになり、一挙に親族に紹介されることになった。当日同席を許された私は、皆が笑顔で彼を迎え入れ、花束が渡される晴れの舞台を目の当たりにした。ふだんから言葉少ないエミリアンは、「メルシー」とひとこと挨拶した。
その日の夜、最初の記事を書いてくれたI記者に親族が見つかったことをメールで知らせると、とても喜んでくださった。彼の記事を受け、ホテルでの出会いから、墓参りまで二日にわたり同行したもうひとりの記者Tさん。彼女は小雨降るなか、半日我々に同行し、われわれの会話を横で聞きながら、そのややこしい歴史や血縁関係をいつのまにかきちんと理解していた。そして、翌日エミリアンの大きな笑顔が紙面を飾っていた。
親族探しに協力し、実際に見つかるととにかく嬉しい。私はなるべく多くの情報を親族の方に提供し、言葉の壁をこえ、70年の時を経て出会った親族の空白の時期を埋めるお手伝いをしたいと思う。それに沖縄の場合、私の知らない風習、戦後の厳しい暮らしことなど、学ぶことが多いので、それを親族の方から教えていただけるのが何よりの役得なのだ。
翌朝、カレドニアの自宅で病気療養しているロベルタに電話した。とうとう見つかった!と伝えると、信じられないと何度も繰り返し言った。今度カレドニアに行ったら、地図を広げなながらきちんと説明するね、そう約束して電話を切った。