Domani展で、私は「村山一家の引き揚げ」というコーナーをつくることにした。文字どおり、村山一家の抑留記録に関する当時の資料を展示する企画だ。前から不思議に思うのは、どうして村山一家だけが旅券や抑留証を収容所から持ち帰ることができたのかということだ。村山一家と同時にヌメアからオーストラリアに移送された日本人の旅券の多くはオーストラリアに到着した時に取り上げられ、現在ではメルボルンの国立公文書館の所蔵となっている。
元移民監督でヌメアで繁盛していた商店経営者だった西山氏に仕立て屋として呼び寄せられた村山氏は、日本で妻を迎えてから旅立った。見よう見まねで仕立て屋になった人が多かったなか、彼はプロの紳士服専門の仕立て屋だった。ちょうど朝ドラの「カーネーション」と同じ時代のことなので、主人公が勤めていた紳士服店のかんじを想像していただきたい。
村山氏は、1941年12月から1941年2月までタツラ収容所に家族と抑留されていた。彼のいたキャンプNo.4では、抑留者の労働力を利用しようとする豪軍側の思惑と、成長する子供や自分たちの服を必要とする女性たちの願いがうまく折り合い、被服工場がキャンプ内に建てられると、その指導役を任せられた。村山氏は、キャンプ内では最新流行の服をつくるおしゃれのリーダーだった。衛兵たちとも親しかった村山氏は、彼らにたのまれて背広をつくることもあった。きっとこういった豪軍との関係のよさが、彼が送還されるにあたりいろんな書類を持ち出すことが許された理由かもしれない。なんの証拠もないが、そんなふうに想像するのが私はいちばん自然なかんじがする。
村山氏は1946年3月に日本に引き揚げると、東京都内で「テーラームラヤマ」の看板を出し、はさみ一本で再スタートをきった。手に職があるというのはいいものだ。村山氏は99歳で亡くなったが、今月100歳になったばかりの彼の妻は健在だ。