沖縄の三木さんから訃報がふたつ届いた。おふたりとも沖縄で活躍された有名な方で、新聞には生前の活躍が紹介されていた。ふたりにはニューカレドニアに親族がいるので、そのつながりでお目にかかったことがある。
今朝は、そのうちのひとり、84歳で亡くなったOHさんにいただいた琉球漆器でコーヒーを飲みながら、彼女のことを偲んだ。彼女との出会いは2011年10月。ニューカレドニアからウチナーンチュ大会に参加したエミリアンが、新聞で親族を探していることを呼びかけると、翌朝名乗りでてきてくださったのがOHさんだ。県の婦人会会長を務めたOHさんが、その面会に同席していた私に対して発した第一声は、「本土の方ね」だった。沖縄の人のナイチャーへの独特の警戒心?には慣れているが、やはり居心地が悪い。しかし、ニューカレドニアから強制送還された彼女の祖父の戦前の話と戦後の話を交換しているうちに、すっかり仲良くなった。それから「また会いましょうね」と言ってくださるようになリ、次は2月に、三木さんと一緒に那覇で食事をごちそうしていただいた。後で娘さんから、その直後腸を患って入院されたことを聞いた。ニューカレドニアの移民120周年祭に参加することを楽しみにされていたが、けっきょく体調不良で断念。彼女の3人の従姉妹ら6名が参加され、戦前祖父が暮らした村を訪ね、大勢の従兄弟、従姉妹、親族に歓待された。
OHさんはほんとうに素敵な方で、社会活動をとおして培った凛とした佇まいがある、私が女惚れする人だった。
最後に電話で話したのは6月、私はエミリアンの孫の命名のお願いしていた。彼女は「寿美」という名前を選び、「美」は津田先生の「美」からとりましたよ、とおっしゃった。嘉手納基地に入ってしまった親族のお墓に連れていってもらうことが次の約束だった。もっといろんな話をしたかった。沖縄のことを教えてほしかった。だから残念でしかたない。
奇しくも、告別式はオスプレイ反対県民大会のある8月5日だ。空から県民大会の行方を見守っておられることだろう。ご冥福を心からお祈りしたい。

山積みの沖縄本の上ある、OHさんのプレゼント