ブルーム生まれのJさんから聞いて、東京芸術劇場で上演された結城座の『ミス・タナカ』(天野天涯 演出)を見てきた。池袋の駅で降りるのは何十年ぶりだろうか。劇場は開演を待つ常連風の人でいっぱいだった。
結城座は1635年に旗揚げされた江戸糸あやつり人形の劇団である。文楽か、パリのギニョルくらいしか見たことのない私は、予備知識なしに、戦前のブルームを舞台にした真珠貝採取の潜水夫の話だというだけで、東京まで出かけることにした。公演は、それはそれは素晴らしいものだった。人形遣いと人形がひとつのパーソナリティを共同で演じわけ、たいていの役で人形遣いと人形が同じ容姿かつ同じデザインの衣装を着ていて、文楽のような黒子のような主従関係とは異なり、人形遣いと人形がスイッチしながら巧みに演じていく。
最初の数分に次々に現れた、海、月、潜水病に侵された男の姿をとおして、すっかりのめりこんでしまった。実にシンボリックな「ブルーム」だったからだ。
それに、スポットライトを浴びる主役達以外の群像が実に良かった。彼らの動きをオプラグラスで覗くと、表情豊かで、舞台の奥行き、重層感をつくりあげている。舞台上に、日本人社会における博打、相撲、といった催し、女性をめぐる争いなど、海に生きる男たちの荒々しい勢いや暮らしぶりが生き生きと現れていた。そして、パーカッション、ディジュリドゥ、チェロによる生演奏が、オーストラリアの北の果てに栄えた真珠貝の町の黄金時代に導いてくれた。
主人公の和彦は、チラシと原作(ジョン・メリル)ではアボリジニと日本人の混血とあるが、公演を観るだけでは、色白な和彦(人形)の両親は日本人ととらえるのがふつうだろう。そして、台詞のなかに、母親が木曜島(オーストラリア)出身とあり、現地生まれの日系二世と思わせる。この芝居の流れでは、アボリジニの血を引くことを提示する必要性、和彦の母親のナショナリティを限定する必要は感じない。しかし、アボリジニであれば、ブルームという町の多民族差別社会の問題をも内在することになる。ここでの和彦は、潜水夫たちとは異質な、ひときわ知性ある穏やかな青年で、傍観者であり、当事者である。(もちろん、それゆえミス・タナカになれるのだけれど)
ブルームは、シドニーやブリスベーンといった大都市とはまったく異質の小さな町だ。バオバブが生えているような亜熱帯の町で、アボリジニが多い。それだけに、私としては、和彦はアボリジニとの混血であってほしかった。もちろんそうなれば、アイデンティティの問題も加わって、テーマが複雑になってしまう。それでも、日本人社会が実際にもっと交わってきた、アボリジニや、ハニーフ(登場人物であるマレー出身の潜水夫)のような他のアジア諸国からの移民との関係が見えてきたはずだ。戦前のブルームは、けして白人と日本人だけの関係でみることはできない。それにせっかくディジュリドゥでの生演奏があるのだから、その特性も生かしてほしい。ディジュリドゥは、ユーカリの木にシロアリがつくった穴(空洞)に空気を吹き込んで振動させることで演奏するアボリジニの楽器で、お腹に響くその音色は、砂漠や海に繋がっていく深淵な表情をを持ち、あのノーザン・テリトリー独特の先住民族ボリジニの大地を想起させる宇宙観さえ伝わってくる。
歴史を知っていると、細かい注文はいっぱい出てくる。あやつり人形による『ミス・タナカ』に対する大賛辞あっての個人的希望である。まずは原作をきちんと読もうと思う。そして必ずもう一度観たい。

写真は、1927年に撮影された、和歌山出身のブルームの真珠貝ダイバーたち(coll. Yasuko Minami)