今朝の新日曜美術館で、東京芸術大学大学美術館で開催中の「尊厳の芸術展–The Art of Gaman」という展覧会が紹介された。Gamanというのは「我慢」である。
展示されているのは、アメリカ在住の日系三世デルフィン・ヒラスナさんが10年にわたって遺族から集めた、太平洋戦争勃発後、アメリカ国内にいた日本人が敵性外国人として抑留された収容所でつくった「モノ」である。
アメリカの抑留者のなかには、ヘンリー杉本、イサム・ノグチのようなプロのアーティストもいたが、実際に収容所でモノづくりをした大多数は、今までアートに関わることなく生きてきた人たちだ。鉄条網に囲まれた収容所での生活というのは、終わりが見えないまま時間を「我慢」強くこなす必要があり、彼らはそこで生きることに重ねるように創作にうちこんだ。
まず最初に、殺風景なスリープングハットを生活できる空間にかえるために、椅子、テーブル、棚など、それからカーテン、寝具、服をつくり、やがて余った時間のなかで、アクセサリーなどの装飾品、彫刻作品の制作に広がっていったのだろう。収容所のなかには大工や鍛冶屋だった人もいたはずだから、そういう人が材料の調達や道具の作り方と使い方を指導をしていたかもしれない。
展示品のなかには小型の仏壇がある。まるで現在流行の仏壇に近い、どれもシンプルで小型のオリジナリティあるものばかりだ。彼らが仏壇をつくり毎朝拝む行為から「日本」に心を寄せる一世たちの気持ちが伝わってくる。アメリカ生まれの二世ならほとんどがクリステャンであり、仏壇を造ることはないだろう。
閉鎖空間のなかで、抑留者たちはより深く自分と向き合い、創作意欲がどんどん高まっていったのだろう。創作物も多様になり、砂漠地帯で集めてきた切り株や、貝殻、石、なんでも材料になることがみえてきたのではないか。女性たちは交流のなかで、アクセサリーをつくり、それを贈り物にした。もしかしたら展示会やコンテストもあったかもしれない。
それほど熱心であったにもかかわらず、ヒラスナさんの話では、彼らは収容所を出てからこういったモノづくりをすることはいっさいなかったそうだ。

オーストラリアの収容所では、日本人抑留者・捕虜がつくったモノでは、ラヴデー収容所のあるバーメラの博物館にわずかな彫刻と小物が残る程度である。日本人捕虜が制作したものでは、オーストラリア戦争記念館に船や花札のとてもいいものが残っている。どれも引き揚げの際に、彼らが世話になった豪兵や近隣の住民を残していったものと推察する。
アメリカと異なり、ほとんどの日本人抑留者・捕虜が日本に強制送還されたため、彼らは生活必需品や食料(砂糖や缶詰)以外はすべて捨て(あるいは燃やして)ざるを得なかった。
かたちあるものを作成する課程と、それがひとつのかたちとして残ること、それを人間の本質的な営みだと考えるとすれば、そこにこそ芸術本来の意義があるのかもしれない。

実際に展覧会を見てから、あらためて本展について語りたいと思う。

東京芸術大学大学美術展のwebより添付