井上ひさしが最期までとりくんでいた「木の上の軍隊」をドラマシティで観てきた。脚本は蓬萊竜太、演出は栗山民也、DMのイラストは和田誠である。上演された梅田のドラマシティは劇場サイズが大きすぎず、どの席から観ても、舞台にある樹(美術は松井るみ)の存在感を感じることができる。幕はなく、照明と音だけがかわっていく。
出演は、若い沖縄の志願兵を藤原竜也、本土から来た上官を山西惇、樹の精を片平なぎさが演じ、舞台の脇にはヴィオラの生演奏者がいる。
この話は沖縄の伊江島で実際にあった話がベースになっているそうだ。戦中戦後の2年にわたってガジュマルの樹の上で過ごしたふたりの兵士。ひとりは若い沖縄(この島出身)の志願兵、もうひとりは本土から送られてきたその上官にあたる上等兵(?)。樹の上に潜んでいるうちに、兵隊としての誇りは生への欲望にかわり、緊張は惰性にかわり、軍隊での上下関係がかたちだけのものになっていく。終戦後2年たってようやく樹を降りたふたりは、その後生涯二度と会わなかったという。(もっと詳しく知りたいのだが、資料が見つからない)
志願兵を演じた藤原竜也は魅力的だ。声の抑揚がいいし、オペラグラスを覗けば顔の表情もまた豊かだ。ファンが大勢追いかけてきているのがよくわかる。とても身軽で若々しく、樹の表面や中を移動し、樹に包み込まれるように暮らしている。だが、自分の故郷を守りたいと願う志願兵であるにもかかわらず、どうしてもウチナーンチュ(沖縄人)に見えないのが残念だ。ウチナー語(沖縄の言葉)がもっと出れば、あるいは衣装に工夫があれば、もう少し本土からの兵隊と差別化できたのではないか。
上官役の山西惇は外見がまさに兵隊である。この島のために死ぬのが惜しくなってしまった兵隊だ。サラリーマンNEOでよくみていた俳優だからか、どうやっても悪人にみえない。彼はプロの兵隊として戦況を把握していたからこそ、樹を降りることを先延ばしにしたのだろう。樹の上にいた2年は、彼があの戦争が何であったかを受け入れるのに必要な時間だったのかもしれない。
片平なぎさは、沖縄の衣装と髪型がよく似合う。ふたりの兵隊の会話に耳を傾けるだけでなく、沖縄の過去から現在に至る様変わりをずっと見守ってきた樹の声となり、この芝居のト書きを語る。
河原町でサスペンスドラマのロケをしていたときに見かけたときもそうだったが、TVで見るよりずっと綺麗で可愛い。彼女の豊かな女性らしさは、沖縄の強さや優しさを体現しているのだろう。
沖縄の島々を十把一絡げにみてはいけない。離島は本島から見くだされてきた。だから伊江島もあの戦争で、沖縄本島以上に辛い経験をしてきた。私はそのことを、熊本でニューカレドニア移民の調査をしていたときに出会ったひとりの未亡人から聞いて初めて知った。彼女は伊江島から疎開していた熊本で、すすめられてニューカレドニアからオーストラリアを経て一文無しで引き揚げてきた人と結婚した。しかしその話よりも私が驚き、強く心揺さぶられたのは、伊江島の裕福な家庭に生まれた彼女が穏やかな表情で語った彼女自身の戦争体験だった。私はあの有名な伊江島を舞台にした沖縄戦の写真が脳裏に浮かんだ。
戦場となった伊江島が跡形もなく破壊された。そして大きな飛行場が建設され、そこが米軍の沖縄戦の攻撃拠点となった。彼女の家もあの戦争で完全に消滅し、それ以来、島に渡ったことがないと語った。
本作では、ふたりはどんどん建設のすすむキャンプを樹の上から見下ろしていた。それは史実から考えれば飛行場だったのだろう。おそらく彼らが潜んでいることに気づきながら、米軍はそのまま沖縄を統治した。
一度みただけではなかなか考えがまとまりきらないのだが、少々具体的に現在の沖縄が抱える問題を想起させすぎていたのではないだろうか。最期はあまりにも現実(現在の沖縄と本土の関係)に強く引っ張られてしまったような気がする。戦争前の沖縄のおおらかさ、それがもっと藤原竜也という役者をとおして伝わってくることのほうが、今の沖縄を考えさせるのには良いのではないかと思った。
次回はこの流れで、首相が記念祝賀会を開き沖縄県民の心を逆なでした「サンフランシスコ条約」のことにふれたいと思う。