しばらく日本国内を移動ばかりしていたので、ブログがすっかり滞ってしまった。授業が始まる前に、不完全だが新しいトピックスを書くことにした。
先日、インターネットで『抑留日記』を入手した。終戦前の1944年、赤沼三郎氏が、日英交換船(1942年)で濠洲ラヴデー収容所から引き揚げた人々が残した体験記録をもとに、同様に抑留されていた身内から聞き取りをしたことをおりまぜながらまとめたものだ。赤間氏は生で体験談を聞くうちに、まるで自分も抑留されていたひとりの日本人になったように、この体験を後世に伝えないといけないという使命を持って書いている。
もとの日記を書いたのは、銀行や企業を代表して海外に赴任していた人たちである。当然ながらよく状況を観察している。私はちょうど上坂冬子氏が直江津収容所(オーストラリア兵がPOWとして収容されていた)について書いた『貝になった男』を読み終えたところだったので、その対比が興味深かった。タツラキッズの話を聞いていると、収容所は楽しく食べ物に困らないところだった(おそらく不都合なことや、嫌な思い出を忘れている)のだが、単身男性たちのみのラヴデー収容所で書かれた記録は当然ながら厳しさがにじみ出ている。また、彼らの目をとおしたニューカレドニアからの年老いた移民たちは、特にわびしさを感じさせる。日記は、タイプライターで打ち込まれた豪軍の事務的な公的記録とはまったく異なる、悲しみや怒りの伝わる私情にあふれている。
「ここの生活は死期を早める。死神の手は、精神的にも、肉体的にも。抵抗力の薄弱な人から迫って来る。歯が脱落するような侘しさである。」
ひとりの沖縄移民(ニューカレドニア出身)が亡くなったときに書かれた数行である。ちょうどその曾孫の方から連絡をもらったところだった。曾孫の方は、自分の祖母(沖縄移民の遺児)からこの曾祖父のことを聞いているのだが、具体的な情報はなにひとつ手許になかった。戦後は遠いというがほんとうにそうだ。沖縄の摩文仁の碑に刻まれた名前は戸籍を失った沖縄の人にとって、亡くなったその人が生きていた証になっているという。だから多くの人がそこに語りかけにやってくる。ふと思った。海外の抑留所で亡くなった人々の名前も摩文仁の碑に刻銘するのは叶わないことだろうか。彼らもまた太平洋戦争の犠牲者である。
抑留に関してもかなり資料が集まってきた。身内の情報を求めている人たちが少しでもこの世にいるうちにまとめたいと思うが、いつになることだろう。