2016年6月10日から、和歌山大学で開催されるオーストラリア学会にあわせて、同大学図書館3階にある紀州経済史文化史研究所のギャラリーで村上安吉の生涯をふりかえる写真展を開催します。
このブログでは、村上の写真を整理しながら、私が感じとった村上安吉のことを自由に書いていきたいと思います。裏付けのない想像もありますので、くれぐれも引用にはご注意ください。

村上安吉とはどんな人だったのでしょうか。
1880年、和歌山県西牟婁郡田並村(現在の東牟婁郡串本町田並)の山林家の家に生まれました。
1887年、一歳年下の友人、浅利熊蔵と西オーストラリアのコサックに渡ります。何故コサックだったのか、それはわかりません。当時、日本からオーストラリアに渡るのには、西濠洲が行きやすかったこと、この地域は採金がさかんであったことなどが理由かと思われます。田並からの移民といえば、北米やハワイが多かったにもかかわらずオーストラリアを選択したのは、浅利の長兄増太郎が西オーストラリアに居たことも影響しているかもしれません。コサックで、村上と浅利は、町で一二を争う西岡商店を経営する西岡高蔵・エキ夫妻に出会います。
西岡夫妻がより新しいビジネスの市場を求めて、真珠産業で栄えるブルームに移住するのにあわせて、村上もそれについていきます。勉強家の村上は、おそらく従業員のなかで頭角を現していたでしょう。西岡高蔵は、岡山市内出身で富本節の名士だったとか。サイゴン、シンガポールで大成功をおさめ(何の分野かは不明)、次々と新たな市場を開拓してきた人です。私の想像では、もともとは「遊興」分野で儲けてきた人だと思います。
1901年、西岡高蔵が急死。1903年、エキは岡山で旅館を経営する西岡の実姉のところで葬儀を行います。そして分骨?したのでしょうか、岡山の寺に墓を建てています。彼女は誠実に、同士でもあった夫の供養をしたのでしょう。
エキがブルームに戻り、1906年に村上は15歳年上の未亡人エキと結婚し、西岡商店の経営に乗り出すます。ふたりの結婚についても謎が残ります。西岡商店をまもるための結婚だったのだろうとも言われています。当時日本人女性が事業経営することは許されていませんでしたから。というのも女性が経営すると「売春宿」になりかねないとオーストラリア側が警戒していたからです。当時の日本人女性といえば、からゆきさんとして渡航してきた人が多かったのも事実です。
私の見解では、ふたりの関係はまんざらでもなかったと思うのです。それは村上が1907年に母親に宛てた手紙から推測するのです。内容については触れませんが、村上にとってエキは姉さん女房として多くを学べる、充分に魅力的な相手だったのではないでしょうか。エキは腕のいい営業写真師として評判がよかったですし、村上は彼女からその技術を学んだわけです。私個人は、エキは頭が良く人生経験も豊かな、人情のある女性だと想像しています。
この頃、村上は自分の肖像写真を郷里の母や兄に次々と送っています。写真を見れば、村上が少年から成年男子になり、着るものも変わり、大きな自信がその表情に現れてきたことがよくわかります。おそらく、もっとも経済的に恵まれた時代だったと思うのです。
商売の上で「西岡安吉」と名乗るようになった村上は、事業をどんどん拡大していきます。当時の海外在住日本人実業家をまとめた外務省通商局の調査記録にもどうどうとその名前が出てきます。ただし記載されている事業主の名前は「村上安吉」です。つまり、彼はケースバイケースで、「西岡」と「村上」を柔軟に使いわけていたのです。(つづく)

西岡商店の従業員たちと、左端はエキ、助手席が村上 Coll.Yasuko Minami-Murakami

西岡商店の従業員たちと、左端はエキ、助手席が村上 Coll.Yasuko Minami-Murakami