移民史における写真について考えてみたい。
移民史における「写真」、特に戦前から戦時中のものを考えると、グアテマラで写真館を営んだ屋須公平とアメリカの収容所で抑留中に写真を撮ることを許された宮武東洋がまとまったかたちで紹介されている。最近では、戦後ブラジルで自分の子供たちをモデルに写真を撮った大原治雄も注目されている。いずれも単に移民史における資料としての写真というよりは、個々の「写真作品」として評価されている。
彼らの写真に比べると、手元にある村上の写真は芸術の域には達していないだろう。写真は彼にとって、9人の子供と妻を養うのに手堅く安定した収入を得られる仕事であり、自分の研究を記録できる便利な媒体であった。村上は、写真で儲けた金を潜水服や養殖真珠の研究に投資していたわけで、そのことからも写真が彼のやりたかったことではなく、誰かに評価されることを期待するものではなかったことは間違いないだろう。
一般的に、移民たちが残した写真は、誰が撮ったということより、何が写っているかが資料としての価値を決めているようだ。なかでも外地における日本人社会を撮ったものがもっとも好まれる。もちろん撮影された場所や年代がわからないといけない。
今回、村上安吉ライフストーリー展を取材してくださったプレス関係者は、記事を書くにあたり、そろって村上が「日本人社会のリーダー」だったこと、村上の残した写真が「当時の移民の生活がわかる貴重な資料」というまとめかたをしている。確かにそうであるが、村上の写真は、潜水服改良の課程を撮った記録写真や日本人会の歳事をのぞけば、写ってくるのは自分の家族と近所の子供ばかりである。ほとんど父親が自分の子供を撮ったごく普通のスナップショットであり、日本にいる母親に子供の成長を報告している写真でしかないのである。そういえば移民資料としての値打ちが下がってしまうかもしれないが、本展は「ライフストーリー」に焦点をあてているので、それはそれでいいのである。村上という人が、どのような生涯を送ったか、顔の見える個人の移民史を掘り起こすのに、この写真は大いに雄弁であったのだから。
村上はオリジナリティの高い人物であった。あれほど人種差別が強いブルームで、白人に畏怖の念を持たせ、白人の歴史のなかに名前を残したのだから驚きではないか。
彼がしたかったことは、冒険心を満たすベンチャーな発明であり事業だったのは間違いないだろう。イギリス人のグレゴリーとの関係が長く続いたのは、ふたりが野心家であり、新事業をおこすために、互いが補完しあう関係であることをよく理解していたからだろう。そんなことからも、村上にとって日本人社会や日本人会は彼の居場所ではなかったようだ。望まれて日本人会の会長にはなったものの、三男喜三郎氏の話によると、日本人会の仕事をするような時間はなく、名前貸しのようなものだったとのことである。
村上はオーストラリア社会で独特のポジションにいた。彼はオーストラリア社会でどのように生きていくかを考えていた人で、日本のやり方を持ち込み日本人で徒党を組むタイプではなかった。

日本で移民研究をすると、どうしても日本人全般の歴史に言及することが中心になる。また、日本側の視点に重点がおかれ、移民先の社会との関係は二の次になる。もともと「言葉」の壁があるため、現地社会に完全に入り込んでいる日本人そのものが少ない。それに研究の多くは、日本で発表されるだけで、現地にフィードバックされないのがほとんどだ。歴史というのはたいていの場合、このように双方向性がない。

村上の写真について話を戻そう。彼の写真は、郷里に送ってあるもの以外はほぼ消失した。太平洋戦争勃発で、村上一家が、自宅から収容所に移送されると、借家であった村上の自宅兼写真館にあったものは没収されたり盗まれたのだろう。顧客の手元に残った写真は、台紙や村上写真館のスタンプが押してあれば、村上の写真だとわかるが、彼が生涯において撮った写真の総数はわからない。もともと「戦争」によって欠落した写真コレクションである。
それでも、彼のプライベートな生活を映した写真を整理することで、もはや直接話を聞くことのできない村上の日常がみえてきたような気がする。